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成務天皇(在位131〜190?)は全国を国・縣(県)・邑(村)・里に分け、国郡に国造(くにのみやつこ)、縣邑に稻置(いなぎ)という行政機関を置きました。菊間にも国造が置かれ、「菓麻(くくま)」国造と称していました。「久久萬(くくま)」とも書いたようです。江戸・元禄の頃には「菊間」と記録されています。古代の日本語では、「菊」を「久久」と表記していたこと、また「菓」と「菊」が間違いやすい字形であることから、日本語の変遷と共に表記が変わっていったのでしょう。 |
歴史は古く、12代景行天皇(在位71〜130?年)のころ、皇子ヤマトタケルノミコトの東征以前から「島穴」という地名があったとされ、このときミコトが風神・志那都比古命(しなつひこのみこと)を祀ったのが島穴神社のおこりです。また「和名抄」に「海上郡島穴縣馬野村島穴の郷」と記されています。後に「島野」と改められました。これは「あな」がなまって「の」に変じたと言う説、あるいは「島穴」と「馬野」の二村を合わせ間の二文字を略したと言う説があります。 |
古代には「稻庭」、中世には「入沼」と呼ばれていたのが現在の「飯沼」だとされています。地名の成立は奈良時代、45代聖武天皇(在位724〜749)より前。ちなみに地元の方言では、さらに縮めて「いるま」と発音されているようです。 |
現在の潤井戸地区の南部、帝京平成大学の敷地近くに水神谷という字名が残っています。かつてここにこんこんと湧き出る澄んだ泉があり、その水は四方の田畑と人々を潤して、どんなにひどい日照り旱魃の時にも枯れることがなかったといいます。この泉にちなんで「潤井戸」という地名が生まれました。 |
天明年間(1781〜1789)の中ごろ、江戸金杉村の人・荘左衛門と坂本村の人・又兵衛らが五所村西方部の海辺を開拓し塩田をひらきました。天明4年には両者の功績を称え、ここは金杉濱新田と名づけられました。後に金杉は五所村と合併します。 |
現在の大通寺にはかつて寺領に百坪余りの水田があったと伝えられています。 |
古くは「石塚」と称し、集落の中心は村田川に近く今の千葉市浜野と同じ江田郷にありました。孝徳天皇(在位645〜654)のとき大化の改新が起こり、律令制に基づいて上総国府が市原郷に置かれ、それに伴い付近に神社仏閣の創設が相次ぎました。飯香岡八幡宮もこのときに創設された神社です。 |