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「あねがさき」の名は、神々の物語に由来します。 |
平安時代末期の治承4(1180)年、相模国(今の神奈川)石橋山の合戦で平氏に敗れた源頼朝はわずか7騎の家臣と共に小舟で海を渡り朝山(今津朝山)の浜へ逃れました。翌日、武松郷武の塚という里に到着した頼朝は千葉常胤(つねたね)の元へ使者を送り援助を求めます。常胤は、東国武士の大将である頼朝の窮地を知ると一族二百騎を従えて千葉郡からはせ参じました。おおいに喜んだ頼朝はこの地を新たに「喜見塚」と名づけ、後に「君塚」となったのです。また武の塚に祀られていたヤマトタケルノミコトの社に頼朝が源氏の白旗を納めたのが白旗神社の名のおこりです。 |
創置の時代ははっきりしていません。君塚と同じ武松郷の字名で、古くは「御井・後井・五位」などの文字が混用されていました。 |
五井村村誌によると、天明年間(1781〜1789)の初め、養老川の水源に大雨が降り川のはんらんによってそれまであった川筋が大きく流れを変えました。削り取られた田畑の土が河口に堆積して大きな洲が出来上がりました。 |
地元の人でなければ、まず読めないこの地名。 |
伝承によると土橋平蔵という豪族が、平将門が反乱を起こした承平年間(931〜938)に紀州(今の和歌山)からこの地へ来たと伝えられています(史実としては誤りだとされていますが・・・)。平蔵城の城主は代々土橋平蔵を名乗っていました。現在も城山跡が残っています。土橋平蔵将経は、城の守護のため、鬼門に当たる城の東北の方角に西願寺を建立しました。この寺の阿弥陀堂(平蔵の光堂)は国の重要文化財に指定されています。 |
天正18(1590)年、椎津城の守りにあたった北条方・白幡六郎が豊臣方・里見氏の軍に攻められて戦死したのち、その亡骸を葬ったところを「白塚」と呼ぶようになりました。柏原地区には六郎が乗った馬を葬った「馬塚」もあったと伝えられていますが現存していません。 |
中世の名は「桐木台」。明治元年、遠州濱松(今の静岡県浜松)藩主井上正直 |